フィールドワーク中に鉄砲小路の方々に以下の内容に答えていただきました。
Q.この「通り」やこの「近辺」についての様々な情報(歴史・エピソードなど)を、何でも結構ですのでぜひお教え下さい。
この「通り」やこの「近辺」についての様々な情報(歴史・エピソードなど)を、何でも結構ですのでぜひお教え下さい。
消防団詰所にて、鉄砲小路住民の方が炊き出しをして下さり、一緒にお昼ご飯を食べる事が出来た。
祝日に日の丸をあげるのはとっても素晴らしい事だと思います。日本人であって良かったとつくづく思います。だんだんとこの近所(集落)も後継者が少なくなって、老人世帯が多くなっている現状が淋しい気がします。光の森が出来、だんだん街になっているみたいで!!
我が家は、沢村大学の先祖でもあります。(菊陽町新町よりお嫁に来て)この人の氏名は花園の成道寺に墓があり、お百罪かんの洞窟にも氏名がのっています。倉が土塀作りしてあり、25〜30年前にも新聞に載ったことがありおます。
祝日の「日の丸」の揚げ旗は、県道沿いの生垣とマッチして素晴らしい。
近所のじいちゃん、ばあちゃんが良い。鍵を開けていても大丈夫。最近はダメかも。川上の家を「上(うえ)」、川下の家を「先、先の下」という。家が一列。
島原の乱、明治の村と言われている、生垣が新聞によく載る、裏山の高い所にも畑があった、生活水準が高い
組ごとの行事
組ごとでお正月の行事、節頭(組でまわしている)渡し、組にそれぞれ稲荷さんや天神さんがある。
おじいさんはちょんまげで刀をさしていた。鳥羽伏見の戦いに行った。
加藤清正時代に出来た。細川になって、鉄砲隊を東。この辺は家計図がない。みんなどこから来たのか分からない。
昔からの組割りがあって冠婚葬祭等助け合っています。特に両隣と五列は大事です。