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豊後街道・三里木 内部の眼

フィールドワーク中に三里木商店街の方々に以下の内容に答えていただきました。

Q.この「通り」やこの「近辺」についての様々な情報(歴史・エピソードなど)を、何でも結構ですのでぜひお教え下さい。

  • 三里木跡(駅前、石柱)熊本城を起点とした豊後街道上約12キロの地点にあり、以前は数本の榎があり、里数木の伝承を留めていたが、現在は地名にそれを残すのみである。
  • 取材をされたかもしれませんが、鉄砲小路には夏になるとホタルが生息している場所があります。ただ住宅地の裏側なので、あまり知られていないかも?(鉄砲小路には古くからの行事などがあるので、歴史的な角度で見るなら鉄砲小路はおもしろいと思います。蘇古鶴神社など・・・。)お店のPRになりますが、当店では菊陽の夏祭りの花火がとってもキレイに見えますよ。
  • この辺はとてもきれいな女性の方が多いですよ。奥様にしても学生OLの方も・・・何故でしょうね。感心します。遠くに行かずともほしいものがすぐ手に入ります。たくさんのショップがありとても楽しい町です。
  • 昔は桜並木がきれいでしたが(三里木駅周辺)、開発の波に押され、自然がなくなり淋しくなりました。
  • 三里木は熊本城(現在の熊本市子ども文化会館の前付近)から三里=約12キロの距離の「榎」が植えられていた ことから命名されたようです。一里木、二里木、三里木、四里木・・・と大分県鶴崎の港街までの街道に「榎」が植えられて いたといいます。 そして、この街道の両脇には屋久杉が植えられてあり、杉並木が有名です。 街道の両脇に屋久島から移植した杉を植えるように命じたのは「加藤清正公」です。 大阪城、名護屋城の普請奉行であった加藤清正公は、屋久杉の素晴らしさを知っていたようです。 余談ですが、この杉が御縁で、鹿児島県屋久町と菊陽町は姉妹町を締結しています。 また、街道の中央には蝋(はぜ)の木が植えてあります。 生木でも燃える蝋の木は、街道で何かあった時に燃やせるようにということから植えられたとききます。 加藤清正公は、日蓮宗の信者で、バテレン(切支丹)が大嫌いだったようです。 1600年の関が原の戦いで、東軍に見方して、小西行長の所領であった宇土を含む熊本南部一帯と天草を 所領といたしますが、2年後に天草を幕府へ返上します。切支丹の多い天草が嫌いだったようです。 天草返上の代わりに、国道57号線沿いの大分県鶴崎港までの街道を所領とします。 肥後藩は他藩の領地に入らないで、瀬戸内海まで抜けれたのです。 このことは参勤交代の時により安価に江戸に途上できることにつながったようです。 加藤清正公が手放した天草はその後数奇な運命を辿ります。 幕府から、唐津藩の飛び地となった天草は、細川藩の時代に「天草・島原の乱」が勃発。 しかしながら、肥後藩の所領ではないので、細川は運よく、お咎めはありません。 それと、三里木の周辺に「鉄砲小路」という集落があります。これは細川時代に、生まれた集落です。 三里木の北側の小路沿い約4キロメートルに農民を住まわせました。 この農民はただの農民ではなく、いざという時には、鉄砲や刀をもって戦う農家でした。 刀狩以後の時代に農民が鉄砲や刀を持つことが許されていたは珍しいと思います。 一説には、豊臣家の浪人たちではないかとも言われていますが、どこから移り住んだことに関しては 全く秘密だったらしく、未だに謎です。 そんな歴史が三里木の歴史です。
  • ©2008 熊本県立大学津曲研究室