米谷 隆史(YONEYA, Takashi)
(2010年7月「江戸の漢字学習教材あれこれ」を増補)
【メッセージ】
電子辞書が発達した現代でも一家に一冊は国語辞典があるものと思います。 江戸時代の国語辞典とでもいえる書物が「節用集」というイロハ分類体の辞書です。 意味の記述は少なく、専ら、或る語をどのような漢字で書くのかを知るための辞書なのですが、 この節用集、江戸の前期と後期とでは大きさも所収語も配列形式も随分異なっています。 この違いをどう考えるか―江戸時代を通じて、 人々が辞書に求めることばの規範はどのように変化していったのか―が、私の主な研究テーマです。
節用集を購入する人はどんな人であったのか、 日常に使う言葉は江戸時代を通じてどのように変化したのか、 江戸の前期と後期では文化の中心が上方から江戸へとかわるけれどもそのことで 節用集の内容に変化はあったのか、節用集は歴史的仮名遣で配列されているのか、 節用集が掲出する漢字の正しさの規範は現在とどのように違うのか等々、 ことばの変化とその周辺に関わることはできるだけ広く検討の対象にしたいと考えています。
近年は、江戸時代後期の熊本で写された『歳時記』という料理本を紹介した縁もあって、 文献に見られる方言語形にも(ほんの少しですが)注意するようにしています。 法令や契約書の類は定まった形式がありますから、その中に方言が顔を出すことはめったにありません。 しかし、例えば、18世紀後半に熊本の医師が記したとみられる説教本のような文献には、 「タイ」(「タイ」は、18世紀初めの浄瑠璃「博多小女郎浪枕」に既に見られます)も「バイ」も用いられています。 方言は昔からの言葉だから、といって済ませることなく、 いつ頃から確実な用例が確認できるのかという検証は、 細々とであっても続けていくべきでしょう。もちろん、熊本方言以外でも。
なお、熊本城築城時のいきさつを記す文献として折々引用される 17世紀前半の大工の記録がありますが、これは、 現代の我々でも容易に理解できる熊本弁で書かれています。 ただ、江戸時代中頃にならないと見られない言葉も随分多く出てきますので、 内容の上では史実を伝えているかもしれませんが、 残念ながら17世紀の熊本方言を知る資料にはなりません。 とってつけたような教訓ですが、簡単にはだまされないぞ、という気構えは、 文学部で学ぶ人にとっては大切です。 実は、上記の「18世紀後半に熊本の医師が記したとみられる説教本のような文献」も、 真贋についてまだ尽くすべき調査が残っているため、まだ活字で紹介するには至っていません。
『歳時記』(熊本県立大学文学部蔵)
ところで、1800年前後のものと見られる下の節用集(これは本物)。 「ろ」部の最初のところを示しています。「乾坤」とある通り、 「ろ」ではじまる地名・場所・家屋関係の語が収められているのですが、 この「乾坤」内部の分類は丸囲いの漢数字が基準のようです。 はたして、この数字は何なのでしょうか? ヒントは、「濁点は考えなくてよい」です。昔はこんな配列の辞書もあったのです。
【江戸の漢字学習教材あれこれ(2010年7月増補)】
右に示しているのは寛文2年(1662)刊行の『小野篁歌字尽』(おののたかむらうたじづくし)という書物の巻頭部分。この書物は、構成要素が共通する漢字の学習のたよりとするために作られたものなのですが、早速、一行目と二行目を読んでみましょう。濁点を適宜に補います。
木偏の漢字を選び、その旁の訓を用いて和歌を作っていることがわかります。写真は示しませんが、後ろのほうには次のような歌もあります。
この本には上のような歌が百首以上収録されています。現在の我々には見慣れない漢字も折々に見られますが、3番目に引用した和歌からもわかるとおり、どちらかといえば基本的な漢字の学習を念頭において編集されているといえましょう。三十一文字(みそひともじ)の和歌の形式でリズムよく唱えることで漢字の知識が身に付く本書は、初学の者にとって格好の入門書であったことでしょう。『小野篁歌字尽』は所収歌の増減や歌句の変更などはあるものの、江戸時代を通じて何十回も出版された、ベストセラー教科書の一つでした。
ベストセラーにはパロディーや模倣書が存在するのが常のことです。有名なものに、文化3年(1806)刊行の『小野ばかむら?字尽』(「ばかむら」は竹冠に愚)というのがあります。書名はもちろん、右に示した通り、人偏に、春を書いて「うはき」、夏を書いて「げんき」、秋を書いて「ふさぎ」と読ませるなど、『小野篁歌字尽』に所収の和歌をたっぷりと意識したものです。著者は後期の江戸言葉が活写されていることで有名な滑稽本『浮世風呂』を著した式亭三馬。ちょっとふざけた内容が盛りだくさんで、あまり教育的な書物とはいえません。
そこで、ご紹介するのが享保20年(1735)に京都の蓍屋勘兵衛という本屋が刊行した『字学口荒』(じがくくちずさみ)です。著者の青江玄東先生は紀州(和歌山)日高の医師。本書以外に出版された著作はないようです。
本書の序文によると、『小野篁歌字尽』は漢字が少なく、誤りも多いため、医業の合間に中国の『龍龕手鑑』や『篇海』という字書を参考に3000字余を選び、1首に5文字ずつを読み込んだ和歌を新たに作ったものとのことです。この本の冒頭が右の写真です。
冒頭は「螢」や「勞」等の冠部分が共通する漢字を集めています。最初の2首を読んでみましょう。web上には表示しがたい漢字が多いので、和歌部分のみを示します。
下に「虫」を置く「螢」、「鳥」を置く「鶯」はともかく、それ以外は、現代人はまず見かけない、そして、私の乏しい調査経験の範囲内では江戸期の文献でもそうそうお目にかかることのない漢字が並んでいます。また、この本の少し後には「四字並」として、おなじ要素が4つで構成される漢字を集めたところがあります。こちらは最後の2首を読んでみましょう。これも活字に直すのは和歌部分のみ。
「門」を4つ書いた漢字は「広く」、「ム」が4つなら「微か」、「月」が4つなら「照る」、「苟」が4つなら「魚」、「車」が4つなら「さかづき」と読む、といった具合なもので、2首目には画数の多い漢字としてよく取りざたされる「龍」を4つ書く漢字も登場しています。
このように、本書には『小野篁歌字尽』よりも随分高度な、というよりはむしろ漢字検定1級受験レベルのマニアックな漢字を連ねた和歌600首余りが収録されていることになります。ちなみに人偏の漢字を連ねた和歌が10首しかないのに対して、漢字の字数としては圧倒的に少ない病垂の漢字を連ねた和歌が13首もあるのは、玄東先生が医師であったことに関係するのでしょう。そういえば、中国の医学書には『傷寒百問』というのがあって、そこでは例えば「傷寒」(伝染性の病気)の異名を「冬曰傷寒、春曰温病、夏曰熱病」というように暗唱しやすく読み込んでいます。こちらは漢字そのものを覚えるための書物ではありませんが、玄東先生はこういうものに触発されたということがあるのかもしれません。 とはいえ、ここまで難しい漢字を並べられると、和歌の形式で語呂よく口ずさむ、という学習手段がなにか目的にそぐわない感じがするのも事実です。過ぎたるは及ばざるが如し。本書の刊行は残念ながら1回にとどまるようです。
しかし、考えてみると、著作家としてはそれほど高名であったとは思えない紀州の玄東先生が編集した書物を、よしッ出版してやろう、と決断したということは、蓍屋さんはこの本の売れ行きに勝算があったということなのでしょう。その勝算の根拠は果たしてどこにあったのか。『大学』や『論語』などを易々と暗唱するような知識層であれば、本書のような口唱型の教科書で、ある程度難しい漢字を記憶しようとすることにも抵抗はないだろうとでも考えたのでしょうか。
本書のように爆発的に売れたわけでも、また、後世に与えた影響も大きいとは思われない漢字教科書でも、それが存在する裏には現代の私たちには簡単に想像できない、日本人(のある階層の人々)が感じていた漢字への思いが隠されているのでしょう。こうした思いは、それだけをつきとめようとしても、にわかにすんなりと解明できるということはありません。江戸時代のあれこれの資料を調べているうちに、あるいは、現代人の漢字に対する思いを注視していくなかで、当時の意識が、なるほどこんなもんではないか、というように得心できるようになればいいな、と考えています。