あまくさ しろう
天 草 四 郎
海ぞいの 救世主
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天草四郎の生まれた場所や親などはいろいろと話はあるが、はっきりしたことは分かっていない。
その頃の天草・島原では食べ物がなかったり、住民に大きなふたんをおわせたりと、人々は苦しんでいた。そこへ長崎から帰ってきた四郎は人々の病気を治したりするなどの きせきをおこし、また四郎の熱心なキリスト教の教えも人々の心をつかんだ。
1637年には、住民のがまんも限界となり、争いがおこった。この争いは天草や島原地方で起きたため「天草・島原の乱」と呼ばれた。この争いで四郎は住民側の大将として幕府の兵と戦った。争いは、数の差がかなり大きく四郎たちは5か月でやられてしまったが、それでも10代の若さで多くの人々を集めた四郎のカリスマ性がよくわかる。