方言を残すということ
馬場教授インタビュー

熊本県立大学文学部日本語日本文学科の馬場良二教授に方言についてお話を伺ってきた。馬場教授は、日本語教育を専門とし、 外国人留学生への日本語の授業などもされている「言葉」に関する研究者です。
 今回のインタビューで、方言を外国人留学生に教えるための「話してみよう!熊本弁」プロジェクトなども研究室で推進されており、それらの話はとても興味深いものでした。方言についての、馬場教授の興味深い話を紹介したいと思います。

 

◆なぜ方言が消えていっているのですか?

方言はなくなるものではありません。

言葉は変化していくものだから、差が縮まっていくくらいで、北海道から沖縄まで全部が同じになるのはありえないのではないかと言えます。

 一見、方言がないと思える東京にもやはり東京方言をいうものがあり、方言のない土地はないと言えます。

  某テレビ番組で紹介される「単語と聞いただけでどこ出身かわかるような方言」のようなものは少なくとも必ず残っているため、全然通じないというのはなくなったとしてもどこかは残っているでしょう。

  また、方言が消えていっている理由としてはメディアの発達や、核家族化の影響は大きいですね。やはりおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしている人の方が方言を使うことが多いということがわかっています。

 

◆方言研究について教えください。

研究の一部を紹介すると・・・

Q アイヌ語、琉球語は日本語なの?!

⇒似ているという人もいれば別言語だという人もいて、論争があっているそうです。

 韓国語も聞いていると日本語に近いですよね。

だから、韓国語とアイヌ語と琉球語を並べて「さあ、どうしましょう?」と言っても簡単には線を引けないところがあるのだそうです。

Q イントネーションも方言と言える?!

⇒ 方言の本はよくありますよね。しかし、本を読んでいてもイントネーションは書いていません。イントネーションは目に見えないからです。

「もっこす」や「たい」、「けん」などの方言が目に見える文字で書いてあるだけ。

 しかし、お隣の鹿児島県の人と話して訛りを感じることからもわかるように、イントネーションも方言に含むべきなのだろうと思います。

 イントネーションは音声分析にかけて周波数を見れば、高い低いはわかるかもしれませんが、それを見てもイントネーションだというイメージがつかないため、結局目に見えず、方言だということが捉え難いため、研究もなかなか進まないのです。

そういったこともあってイントネーションも方言という意識があまり育たない現状にあるのです。

Q  熊本に潜む熊本弁。熊本弁は熊本の共通語!!?

⇒共通語というのは、その場所で使われる共通の言葉。

皆さんは、「会議中」と周りの人に伝える時に、どのように表現しますか?

  「会議があっています!」

と聞いてこれが方言だとわかった人はどのくらいいるでしょうか。

熊本県出身の方ならこれを聞いても何の違和感もないことでしょう。

「ありよる。」という熊本方言が、「あっている」という表現になっただけですが、正しい日本語では「ある」に「ている」はつきません。

「あります。」「やっています。」と表現します。

しかし、熊本の人はこれが共通語と思っているため、学内にまわってくる公式文書にも「あっています」と書かれていることがしばしば。

さらに、「後から来ます」という表現も熊本の方言。これは正しくは、「後で来ます」となります。

このように、共通語として使っている言葉が、実は熊本に潜んでいる方言ということがわかり、熊本弁は熊本の共通語かどうかということも研究されています。

  

◆方言を音声で残す取り組みについて

 私たちの活動は、方言の研究においても意義のある活動なのか聞いてみました。

 

方言を音声で残すという取り組みは、これから増えてくるでしょう。なぜなら、今まではなかなか音声の取り扱いが上手くいかなかったのですが、近年はデジタル化が進んで録音やデータ処理が簡単になったからです。

 古い単語を調べ、方言を標本に残す活動は昔からありました。しかし、今はもう一歩進んで音声や文法など全部ひっくるめて言語体系として方言をまるごと研究しようという取り組みが始まっています。

そういう意味で、「方言と一概に言っても色々あるので、「山都町の方言を集める」「○○町の方言を集める」という活動それぞれに価値がある。」と言えるでしょう。

 

◆方言が消えているという現状とその必要性

現在、絶滅危惧種と呼ばれる動物が数多くあり、生物多様性を大事にしていけないというのは全世界の共通認識ですよね。

 「動植物」は神様(自然)が作りましたが、「言葉」は人間が作ったと言えるため、そこがだいぶ違うかもしれません。しかし、「言葉」は私たちが規則を決めているわけではなく、自然に生まれて自然に消えていっているため、半分は人間、半分が自然が作ったと言えます。

そういう論理で言うと、言葉の半分はクジラやウミガメのような絶滅危惧種と同じであり、生物多様性が必要なのと同じように言葉も多様性も必要と言えます。

 また、「消えていく文化を残していきましょう」と文化が尊重されるのと同じように、言葉の文化を残していくことはやはり大切です。

 日本で言うならアイヌの文化なんて、放っておいたら跡形もなく消えてしまいますよね。

アイヌ語をネイティブで話す人はすでに何十年も前にいなくなってしまっているのですが、今もアイヌ語を残すためにアイヌ語を話している人がいるのです。

それから、日本語を教えるときにわからない日本語は、「現代」、「過去」の日本語を調べ分析する必要があります。そのときにどうしても必要になるのが歴史と方言。

今ある日本語を知ろうと思うと多くのバリエーションを知らないといけません。現代日本語のデータとしても方言は必要なのではないかと言えます。

 また、生活の基盤、人間関係の構築のためにも必要です。

少なくとも熊本で暮らしていくためには熊本の方言を使わないと人間関係がぎくしゃくしてくるのではないでしょうか。

 言葉はバリエーション。

方言がなくなると表現もやせ細ってしまいます。

 そのバリエーションを使い分けることで豊かな日本語になるため、馬場先生も留学生の皆さんに「方言」を教える際には、どこで使うかを考えながら上手に使いこなすことが必要だということを伝えていらっしゃるそうです。

  最後に、馬教授が言われた言葉は特に印象に残りました

「『方言を残していくべきかどうか』と言うと他人事みたいですよね。それより母語を大事にしていかないといけないと思います。結局は自分の言葉であり、母語(=生まれ育った母なる言葉)なのですから。言葉が絶滅危惧種と同じだとしたら、それを飼っているのは自分。自分が大事にしないとなくなっていってしまいます。」