今回の調査で、中心的人物となっていたのが、上田宜珍という江戸後期の人物である。上田資料館は、彼の生家を元にした資料館である。
江戸後期に建てられた母屋が国の有形文化財に登録されている上田家旧家は、ちょうど7代目当主・上田源太夫宜珍の時代、文化13年(1815)に建築されたものである。資料館入口にある看板によると、約600坪の土地に南向きに建てられ、大広間(17畳)、中之間(12畳)、居間(12.5畳)、表座敷(12畳)、奥座敷(8畳)、裏座敷(9畳)、離座敷(12.5畳)など約100畳の広さと部屋数は約20室に及んでいる。
天井は非常に高く、二間半ほどの高さである。
家の材料は、シイ、マツなどの雑木を使い、がっしりと構築され、海からの強い西風や台風にはビクともせず長年の風雪に耐えてきた。
山を背景に斜面を生かした庭園は、天草の中でも第一級のものである。
このような旧役宅がそのまま現存しているのは歴史的、建築学的にも実に貴重な文化財である。
上田家の系譜によると、上田氏は清和天皇の曾孫にあたる善淵王を始祖とする滋野氏より出たものである。上田氏のみでなく、海野、根津、真田氏も滋野氏から分かれた氏族である。
上田家の起こりは、元和3年(1618)に、上田家の始祖である正信が肥後天草の高浜村に隠遁して上田助右衛門と名乗ったところにある。
正信は、豊臣秀頼に仕え、大阪城を守っていたが、後に陥落したため筑後へ下り、天草まで来たようだ。
上田という苗字は正信の郷国である信州の上田郷に因んだものである。
第二代勘右衛門定正は、父に従い天草高浜村へ隠遁した後、隣村の大江村へ移り住んだ。
しかし万治元年(1658)に代官鈴木伊兵衛に高浜庄屋になることを命じられ、再び高浜村へ移り住むことになった。
それから明治4年(1871)に第12代上田松彦が戸長となるに至るまで、220年近く庄屋を務めたのである。
自然味溢れる庭園の一角に資料館はある。
展示品の中心となるのは、高浜焼である。
宝暦12年(1762)に第6代伝五右衛門武弼が肥前から陶工を雇い皿山で窯業を始めた。最初は中々上手くいかなかった経営も宜珍の代で復興した。
資料館には、焼物だけでなく皿山経営に関する文書や、職工から宜珍への手紙など、当時の人々の生活が窺えるものも展示されている。
また、宜珍の編著である『天草島鏡』や『嶋之藻屑』などもあり、高浜焼の歴史から上田宜珍像まで貴重な資料を閲覧することが可能である。
資料館と隣接して、高浜焼寿芳窯があり、繊細な美しさを持つ高浜焼を購入することもできる。