上田宣珍について
上田源太夫、上田源作、滋野宜珍などとも名乗る。
彼は天領時代中期に活躍した高浜村庄屋である(高浜村は現在の天草町高浜)。
行政面では、文化二年(1804)に五千余名の隠れキリシタンが摘発される事件が起こった際、島原藩との協力の末に一人の処分者も出さなかったという手腕を発揮している。また、伊能忠敬の接待役を引き受けた際に伝授されたと考えられる測量に関する技術を生かし、文化十一年(1814)の高浜村大火の後には整然と村内の区画整理を行い、高浜村復興に努めたという実績もある。
実業面でも、良質な天草陶石による皿山経営を行うなど活躍を見せている。
そして文化面では『天草島鏡』の他、『嶋乃藻屑』などの歌集もあり、和歌の道にも通じていたことが分かる。本居宣長の弟子である本居大平に師事していたようである。また熊本へ出て、時習館第三代教授・高本紫溟らに漢学、国学を学んだ博識な人物であったことは間違いない。
彼が天草にもたらした功績は計り知れないものがある。