日本経済新聞に掲載された記事


[日本経済新聞2005年(平成17年)10月6日(木曜日)付け朝刊・文化面(32面)]
(新聞社からの要請で,記事そのものではなく,テキストのみを転載しています。)

パラオが愛す 日本の建物 ◇今なお利用されている日本統治時代の建築を調査◇   辻原 万規彦

 赤道直下、太平洋の小さな島々からなる人口約二万人のパラオ共和国。青い珊瑚礁に囲まれたこの地に八十年も前に日本人が建てた建物が今も残り、大切に使われていることをご存じだろうか。
 一九二〇年から日本はパラオを統治し、南洋群島支配の中核地として現在の首都コロールに南洋庁を置いた。最盛期には約二万五千人の日本人が居住し、南洋庁土木課などが気象台や社宅などを次々と建設した。小高い丘の上に南洋庁本庁や社交クラブの昌南倶楽部、南洋新報社などが林立し、モダンな町並みを作っていたのだ。
 このうち南洋庁パラオ支庁、無線電信所など六つの建築はパラオの最高裁判所、国会議事堂などとして今も活躍中。そのほか門柱や雨水をためるタンク、コンクリートの基礎部分など建物の一部などが、四キロほどのメーンストリー卜周辺に百余り残る。古い基礎の上に家を新築して再利用する人も多い。
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 シンプルで経済的
 私は四年前からパラオの建築を訪ね歩いている。京都から熊本の大学に赴任したのを機に暑い国の建築を研究しようと思い立ったのがきっかけだ。南洋群島の日本統治下の建築の存在を調べてみると、旧満州(現中国東北部)などに比べてほとんど知られていない。太平洋戦争の激戦地にどれほどの建築が現存しているのか、この目で確かめてみたくなった。
 建物の特徴は、まずシンプルで実用的、経済的なことだ。たとえば南洋庁本庁庁舎(現存せず)の二階建ての建物は風通しをよくするために窓が多く、直射日光が差し込まないようにテラスで取り囲んだ。約百二十メートルある正面の外観には百五十本前後の柱が立ち、大きな窓をびっしり取り付けた。真っ白な柱や窓枠、テラスの柵が並ぶ様は壮観だったに違いない。
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 「涼しく住みやすい」
 建築資材のほとんどを現地で生産した旧満州とは違って、パラオではすべてを日本から運ぴ込んだ。だから戦況が厳しくなるにつれ、南洋庁気象台庁舎(三八−四四年の間に完成、現在はパラオ社会文化省芸術・文化局庁会)のように、鉄筋コンクリートは一階だけで、二階は木造の「節約型」建築も現れる。
 海砂を混ぜたコンクリートは塩気がきつく劣化しやすいはすだが、現役の建物が多いことに驚いた。しかし、建物を実測させてもらい、人々に聞き取り調査をしてみて、その理由の一つがわかった気がする。垢抜けたデザインではないが、パラオの国民が増改築を加えつつ、愛着を持って使い続けているからである。
 これまで建築士で大学研究員の妻と二人で四回コロールに滞在し、地図にもない小さな建物やその名残を探して町中を歩き回った。濃い緑の葉陰に苔むしたコンクリートや朽ちかけた門柱などを見つけると、近所の人々に話を聞いてみる。
 当時の思い出は残念ながらあまり聞けなかったが、日本統治下の建物に対する思いをずいぶん伺った。近隣の島から若者を集めた木工徒弟養成所の跡に自動車修理工場を経営する男性は、その歴史に誇りを持って工場を「モッコウ・オート・リペア」と名づけた。終戦後は近代的な住宅も増えたが、日本時代の住宅の基礎を再利用する住人は「こっちのほうが涼しくて住みやすい」と口々に語る。石の柱を立て、その上に床を組んでいるので、風通しがよいのだ。
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 裁判所の実測に1週間
 大規模な建築は現存していても設計図はなく、外観や部屋の一つ一つを実測した。パラオ支庁庁舎(現・最高裁判所)は実測だけで丸一週間かかった。トタンの屋根や木の軸が傷んでいて危険だったが、私より体重が軽い妻が正面の高さ十八メートルの塔にものぼった。
 先月末から同国のベラウ国立博物館で開館五十周年の記念展覧会が始まった。今はない南洋庁本庁庁舎や、当時世界最先端レベルとされたパラオ熱帯生物研究所を写真などを基に模型に復元し、研究成果とともに展示している。図面や模型は会期後すべて寄贈する。
 同館の向かいにア・バイと呼ばれる集会所がある。かつてはどこの村でも見られた深い切妻屋根の伝統建築だが、このような建物はほとんど姿を消したという。日本以前にはスペインとドイツ、戦後は米国に支配されるという歴史に翻弄された国だからこそ、研究を通してパラオの人々が自国の建築文化を考えるお手伝いをしたい。(つじはら・まきひこ=熊本県立大学助教授)