日本語の熊手
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係助詞・係結論
「は」の文法的な働きは「取り立て」機能による二項対等結合である  半藤英明
 従来の「は」に関する研究成果によれば、「は」の文法的機能は「二分結合」である(青木伶子氏)。尾上圭介氏の命名による「二分結合」は、簡潔に言えば、「は」が前項と後項とを分節しつつ結合しているという理論的発想である。その「二分結合」は、私見によれば「は」の「取り立て」機能の一つのあり方である。
 「は」構文の構造および表現分析によれば、「は」は係助詞としての「取り立て」機能により、もともと述語と従属的関係にある諸連用成分を、述語の支配下から分節した上で対等の資格として結合するものである。ところが、これを名詞述語文で考えると、題目たる前項の名詞と解説たる後項(すなわち述語)の名詞とは元来、従属的関係にはない個別的な存在である。すなわち「は」構文の前項と後項に配置される名詞は、かたや主題、かたや解説となるべき、そもそも対立的な二項であり、「従属的関係を分節して結合する」必要のないものである。あらかじめ従属的関係にない名詞同士について、それらを対等の資格とするために「二分」する必要性は存在しない。
 なれば「は」の基本的な働きは「二つの構成素の対等的結合により一つのまとまった表現としての結合体を作る働き」であると考えられる。いわば「二項対等結合」である。
 このような理解からすれば、「二分結合」とは、述語とは従属的関係にある諸連用成分を述語と結合するにおいて必要となる作用である。「は」の文法的な働きを「二項対等結合」とすれば、この「二項対等結合」を実現するまでの一つのあり方(前段階)として「二分結合」があるという判断になるのである。

(2015.3.10)
係結び研究はどこに向かうべきか  半藤英明
 日本語史(国語史)の研究テーマとして論文数の多い係結び(係り結び)であるが、近年は係結び構文全体の形式面に着目した論文、すなわち構文的考察が目立つ。係結びの表現性に対しては論述が尽くされた感があり、新たな展望を切り開く上での方法論の選択であるのだろう。
 係結び研究の面白さは、係結びという極めて特徴的な形式的操作が、何のため、何を目指してなされたか、を追究する点にある。その追究は、係結びによって何を、いかなる態度で伝達しようとしたかを明らかにするものである。古代語における伝達態度の一端の明示化は、古代語と現代語との同質性・異質性を考えることへと発展する。
 ただし、係結びは、係結び現象の視点のみで論じてはならない。係結びをもたらす助詞を係助詞と呼ぶなら、係結びは係助詞の視点でも考察されなければならない。寧ろ係助詞というものの理解に立って係結びを論ずるのが筋というものである。なぜ係助詞だけが係結びをもたらすのか、を思えば、それは当然のことである。疑問詞と文末の呼応などは、必ずや係結びとの連関がある。
 係結び構文を考察すれば、自然と、常態的な通常構文(非係結び構文)との対比を考えることになる。言わずもがなであるが、一口に言って強調構文である係結びは、通常構文の存在の上に成り立つ。なれば結局、係結び研究とは古代語そのものを考えることであり、延ては現代語の理解にも有益な論点を提供するものとなる。係結び研究を侮る勿れ。
 繰り返せば、係結びは、係助詞との関係から論じなければ、その本性を見極めることはできない。係結び研究には、係助詞研究の成果を十分に活かすことである。

(2014.1.10)
主語となる「主体」  半藤英明
 日本語の「主語」については、かねてより用語の要不要を含め、さまざまな議論がある。その規定は、なかなか難しいけれども、主語という用語には述語に対応するものとしての利便性があり、概して文法用語としての定着度もある。時枝のごとく、これを連用修飾語の下位類とするに反対ではないが、主語という用語を文法説明に活かす必要性は高いと思える。
 「主格」を「が格」に等しいと見るとき、仮に「主格の語=主語」と規定するならば、「水がほしい」の「水」は主語であるが、「水が飲みたい」の「水」は「水を飲みたい」の言い換えでもあり「を格」相当であるから、主語ではない。  しかし、従来の議論にもあるように「ほしい」「飲みたい」から見た「水」は、「が」で示されるけれども、等しく発話者が欲している願望の対象であると判断できる。時枝のいう所謂「対象語」であり、この立場では、どちらの「水」も主語ではない。  主語を「が格」そのものの表現とすれば、上述のような分析上の簡便さはあるものの、文節相互の意味的な関係性を無視して主語か否かを判別せざるを得ないケースが起こる。筆者は、このような事態を避けるべきと考える。
 前に筆者は「述語の意味内容から見て、その主体に当たるもののみを主語とするのが適当と考える」とした(1)。述語から見た主体は、通常「が格」で表示されるが、その主体を形式上の「が格」とはせず、意味内容からもはかろうとするものである。その中身は多岐にわたる可能性がある(2)が、述語の主体と扱われるものの姿は、述語の品詞、また内容により自ずと変わる筈であるから、それは寧ろ当然なことである。  一般に、動詞述語であれば、その主体は、ほぼ動作主、状態主、存在主となり、形容詞(および形容詞型)述語であれば、属性主か認識主体になる(3)。例えば「鳥が飛ぶ」では「鳥」が動作主、「骨が折れている」では「骨」が状態主、「湖がある」では「湖」が存在主、「壁が白い」では「壁」が属性主であり、いずれも主語である。前掲の「水がほしい」「水が飲みたい」は、ひとまず、言語化されていない認識主体の「ほしがっている誰か」が主体であると判断され、その場合、「水」は認識の向かう先、即ち、認識対象という扱いになる。中島文雄(1987)によれば、発話者の情意の直感的な表現である形容詞述語文では「情意の主体である『私』は意識に上らず、情意の対象が『が』で示される」(30頁)とある。即ち「水」は主語ではない。この辺りは、時枝の認識に共通するところである(4)。  そのような立場で幅広く文例を観察してみると、実は、述語の認識方法(捉え方)によって主体のあり方が変化することが浮かび上がる。
 前述のように「主語」を「述語の意味内容から見た主体」という観点で捉えるとき、主体の中身は述語の品詞と密接に関わる。それとは別に、述語の意味内容に対し、その表現が状態性のものか否かという認識方法の視点を加えることで、主体の中身はモノであったりヒトであったりと変化することがあり得る。加藤重広(2006)によれば「述部が形容性を有すると解釈できれば、一見論理関係上はガが現れないと思われる場合でもガが使える」のであり、「水が買ってある」「チョコレートが太る」「この種の作業が疲れる」「あの人の態度が困る」なども形容すべき主体に当たる、とされる(76頁)。なれば、文中に二つの「が格」が現れることで述語から見た優先的な主体を絞り込む必要があるようなケースを除けば、結局は「が格」が主語を表しているということも言い得る(5)。
 但し、前述の「水がほしい」「水が飲みたい」に代表される願望表現については、「水が」を主語とし得る可能性は極めて低いと思われる。それらの表現全体を事態のものとして状態性の視点で捉えることは可能であっても、「ほしい」「飲みたい」状態を形成している主体が「水」というモノであるという判断はしづらいからである(6)。同様のことは、誂えの表現にも言える。例えば「雨が降ってほしい」「あなたが渡してほしい」の主体は、通常は認識主体であり、その認識主体が「雨に降ってほしい」「あなたに渡してほしい」というのであるから「雨が」「あなたが」は願望の向かう先ということになり、主語とはならない。このとき「雨が」「あなたが」を「降ってほしい」「渡してほしい」という状態を形成しているモノとしての主体と見ることはできない。
  状態性の視点で捉えることは、客観的な捉え方をすることでもあるが、願望表現や誂えの表現は客観的なものとしては捉えにくい表現であろう。つまり、それらの表現が著しく実体的でないことで、そこに属性主としての主体は認識し難いと考えられ、更には、願望や誂えの主体はヒトであるべきで、モノが何かを願望することは基本的に想定外であるという常識に因っても、先の「水が」や「雨が」「あなたが」は主語たる主体とはならないのである。

 (1)半藤英明(2006)259頁
 (2)野田尚史(2002)は、従来の主語の扱いには動作主、主格、意志主、モダリティ主などが混然としている、と指摘する。
 (3)加藤重広(2006)では、動作性述語文の「が」が「動作・行為・変化・認識などを行う主体を標示する」とし、形容性述語文の「が」が「状態・属性・性質など形容すべき主体を標示する」としている(76頁)。
 (4)形容動詞述語は、形容詞述語の場合に準ずる。なお、名詞述語の場合は、述語の意味内容と同一体の関係にある事物、即ち「A=Bだ」のときの「A」を主語とする。このとき「春はあけぼの」の「春は」は「副詞的な語句」(中島文雄(1987)の指摘、116頁)であり主語としにくいが、格関係に置換する限りにおいて「が格」以外ではあり得ないことから、ひとまず主語と見做しておく。
 (5)この結論が、単純に「が格」が主語であるという文脈とは異なるものであることは言うまでもない。
 (6)加藤重広(2006)では「水が飲みたい」について、「『水』は『飲む』という動作の対象であるが、『飲みたい』という形容述語からすれば、その属性を有する主体と見なされる」(76頁)と述べるが、本論では従えない。

 参考文献
  加藤重広(2006) 『日本語文法 入門ハンドブック』(研究社)
  中島文雄(1987) 『日本語の構造―英語との対比―』(岩波新書)
  野田尚史(2002) 「主語と主題」『言語』30周年記念別冊
  半藤英明(2006) 『日本語助詞の文法』(新典社)

平成22年度 第42回 解釈学会全国大会(8/19、皇學館大学)で発表
文学的解釈のすすめ  半藤英明
 『宇治拾遺物語』巻第三ノ六(絵仏師良秀の話)に次の一文(以下「例文」とする)がある。

  わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ

 この「給へ」を、「こそ」の結びとしての已然形ではなく、命令形と捉える解釈がある(1)。「汝らは、たいした才能もお持ちでないのだから、物を惜しみ給え」というような訳になるのだろうか。ここでは、この問題について語学的見地から私見を述べる。
 その解釈では、「こそ」の結びを「おはせねば」の「ね」としているが、まず、その可能性について。「こそ」の係結びが已然形条件句の用法(つまり「〜こそ…已然形、主文」の形式)を起源とし、そこから主文が省略されることで成立したことは周知のことである(2)。「こそ」による条件句は、逆接の例が殆どであるが、次のような順接の例(しかも、結びの流れたもの)もある。

 @「そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを、いとよし。(後略)」(源氏、若菜上)
 A「まろをおぼさば、此(の)腹の公達を男も女もおもほせ」とこそ申(し)給へば、いみじきさいはひおはしける。(以下略)」(落窪、巻之四)

 @は、光源氏が明石の君に対し「あなたはいくらか物の道理がおわかりのようなので、ほんとに結構だ」と述べるところである。Aは、少将の言葉で、落窪姫が「私のことをご心配くださるなら、〜」とおっしゃるので、(四の君にも)たいへんな幸福が得られなさるのだ、と述べているところである。「こそ」を含む条件句は、原則として「こそ」の文節のかかり先が条件句内にあり、後の主文にはかからない。@の場合、「そこにこそ」が直接「いとよし」にかかっているとは考えられない。Aでは「とこそ」は「申(し)給へば」にはかかるが、後文の文節にはかからない。
 そこで、先の例文が@Aの類例に当たるか否かであるが、例文の「わたうたちこそ」は意味的に「おはせねば」とも「惜しみ給へ」とも関係する。その点で、例文は「こそ」による順接条件句@Aの類例とは見なし難い。即ち、例文の「こそ」の結びを「おはせねば」の「ね」に限定して把握することは適当でない。係助詞と結びの呼応関係は、係助詞の文節の意味的なかかり先をはるかに越え、意味的に関係しない文末にまで及ぶこともある(3)。これは、それらの呼応関係があくまで文末を目指すものであることを示している。その点からは、従来の諸文献の解釈がそうであったように、例文の文末が「こそ」を承けての已然形であるとする可能性は極めて高いと言える。
 但し、上記のことは、「給へ」を命令形と解釈することの妨げにはならない。ここで、例文を「こそ」の係結び構文と見る先入観を取り払い、例文の「こそ」を呼び掛け用法と考えてみる。「こそ」の呼び掛け用法とは、次のようなものである。

  B「大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」(源氏、横笛)
  C「少納言の君こそ。明けやしぬらむ。いでて見給へ」(堤中納言、花櫻をる少将)

 どちらも「大将よ」「少納言の君よ」と呼び掛けたあと、呼び掛け対象者に向かって命令文を発する表現形式にある。例文を、これらの類例と捉え、「わたうたちよ」と呼び掛けたものとすれば、文末の「給へ」を命令形と捉える解釈を支えるものとなる。
 しかし、これは、例文を「こそ」の係結び構文と見る従来の解釈に変更を迫るほどの決定的なものではない。例文の一文前には「今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。」とあり、また例文は「といひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。」と続く。つまり、例文の前後には「こそ」が連続的に使用されており、その件は物語のクライマックスとして文章的に強調されているところである。そのような並びから見れば、「わたうたち」が「させる能もおはせねば、物をも惜しみ給ふ」という事態を発話者の主観をこめて強調して表現したものが例文である、と見ることも直ちに否定し難い。その場合は「汝らは、たいした才能もお持ちでないからこそ、物を惜しみなさるのだよ」というような訳だろうか。概して「こそ」の係結び構文は、文末に助動詞、感情形容詞、感覚動詞を取り易くする(4)が、「おはす」「おはします」など、尊敬表現を取ることも珍しいことではない。 そこで結論だが、問題の例文について文法的に規定することは難しく、それこそ文学的解釈が十分に発揮されるべき表現であるということになるであろう。古典教育の現場にあっては、さまざまな解釈の可能性について議論されることを期待したい。私見では「物をも惜しみ給へ」の「も」に注目し、「物を惜しむ」以外に何を暗示しているのか、とことん拘ってみることをお奨めする。
 たとえ文法的に特定できなくても、わたしたちには想像力がある。

 (1) 佐野比呂己「文脈と係り結び」(『解釈』第52巻第11・12号、平成18・12)
 (2) 例えば、山口佳紀は「已然形は、本来的には、単なる確定条件を示すものであって、従って、原理的には、順・逆いずれにもなり得るものである。しかし、現実的には、言語的標識の特に存しない場合には、順接となり、上句にコソ・シモなど強調辞が投入された場合には、逆接になるとまとめることができよう」と述べる。『古代日本語文法の成立の研究』(有精堂出版、昭和60・1)451頁
 (3) 小田勝「係助詞に対する過剰な結びについて」(『國学院雑誌』第99巻第1号、平成10・1)に指摘がある。
 (4) 半藤英明『係結びと係助詞 「こそ」構文の歴史と用法』・第3章(大学教育出版、平成15年・9)

〔引例〕『源氏物語』『宇治拾遺物語』は日本古典文学全集(小学館)、『落窪物語』『堤中納言物語』は日本古典文学大系(岩波書店)に拠った。

熊本県立大学文学部『文彩』第6号(2010.3)より転載
ケイジョシという言い方 半藤英明
 日本語助詞の分類上、「係助詞(カカリジョシ)」というものが設定されている。山田孝雄博士(1873〜1958)が、述語の「陳述」に関与し影響を及ぼす助詞に対して命名したものである。以来、この「係助詞」をめぐり、多岐にわたる様々な研究が行われてきた。とりわけ「陳述論」と呼ばれた討議・論争は、「係助詞」の機能や文のありようを考えるものとして象徴的に有名であるが、現在でもなお、係助詞関連の研究は活発に進行中である。
 「係助詞」が如何なるものかの概要を知ろうとすれば、数多くの語学辞典・文法辞典の記述がまず参考となり、ここでは触れないが、それらの中には、「係助詞」を「ケイジョシ」とも読む、と指摘するものが存在する。中学校・高等学校などの教育現場でも、古典語の所謂「係結び(係り結び)」をもたらす助詞としての「係助詞」を、「ケイジョシ」と読んで教える教師が多いと聞く。しかし、筆者は、この言い方を好まない。「係助詞」は「カカリジョシ」と読むべきものである。
 山田博士によれば、「係助詞」は、かの本居宣長の唱えた「係」の術語に基づいて、「係(カカリ)」の機能を持つ助詞の義として冠されたものである。「係」の機能とは、述語との間に一定の関係性を持つことを意味しており、現象的には「係結び」に見られる形式上の文末拘束現象が際立つが、そればかりではなく、述語に対して文の成立を保証する役割をも担う性質のものである。その機能は「ケイキノウ」ではあり得ない。「係結び」は「カカリムスビ」であり「ケイムスビ」ではない。「カカリムスビ」の助詞であるのに「ケイジョシ」と呼ぶのは、いかがなものか。山田博士の著作、例えば『日本文法学概論』(宝文館、1936)の索引では、「係」「係助詞」が「か」の項にあり、「け」の項には挙げられていない。
 従来、係助詞を「ケイジョシ」と読んできたことの根拠は、恐らくは、他の助詞の名称が「格助詞(カクジョシ)」「接続助詞(セツゾクジョシ)」「副助詞(フクジョシ)」「終助詞(シュウジョシ)」「間投助詞(カントウジョシ)」のように、ほぼ音読みである、ということである。係助詞を「カカリジョシ」と読めば、「カカリ」の部分が訓読みとなるので、他の助詞の読み方と合わない。そこで「係助詞」全体を音読みし、「ケイジョシ」となる。学問的背景にこだわらなければ、見事な形式美であるが、しかし、そのことをもって、「ケイジョシ」の読みを認める訳にはいかない、というのが筆者の立場である。
 長年にわたり係助詞研究を牽引し、その集大成として『現代語助詞「は」の構文論的研究』(笠間書院)の著書がある青木伶子・成蹊大学名誉教授は、筆者との直話において、山田博士が係助詞を「ケイジョシ」と読むことは考えられない、と述べている。

熊本県立大学文学部『文彩』第4号(2008.3)より転載
係助詞をどう捉えるか  半藤英明
 係結びを考えるとき、まず、係結びを起こす助詞が係助詞であるのか、係助詞が係結びを起こすのか、が問題となる。従来の研究成果によれば、係助詞としては、最低限の「ぞ・なむ・か・や・こそ」と、係結び形式によらないものの、係機能が認められるものとして「は・も」が挙げられている(異論もある)。しかし、前者のように「係結びを起こす助詞が係助詞である」のであれば、文末の活用形を拘束するという形式的な意味での係結びを取らない「は・も」は係助詞とはならない。また、後者のように「係助詞が係結びを起こす」のであれば、係助詞とされる「は・も」が係結び形式にない理由を明示しなければならない。「は・も」が終止形を要求する係結びにある、という説は従来にあるが、「は・も」構文の文末が終止形を拘束的にしていない事実は明らかである。

 係助詞「は・も」が係結びとならない理由については、『係助詞と係結びの本質』(新典社刊)に見解を述べたので繰り返さないが、そのことは、結局、上記の各係助詞が等質性を持つことを述べたことになる。係助詞の機能たる係機能とは、私見によれば「取り立て機能」である(その規定についても拙著に譲る)が、係助詞がトータルに「取り立て機能」を持つとして、今は、その機能が各係助詞のいかなる等質性と結び付くのかが大きな関心事である。係助詞が二種のものからなるという考え方(尾上圭介「係助詞の二種」『国語と国文学』79・8)からすれば、係助詞の体系は、もともとは異なる性質のものから構成されていると考えることができる。それらが共通に「取り立て」機能を持つに至るには、それらに何らかの等質性を見出す必要がある。

 詳細を明らかにはできないが、少しく考えるところを述べれば、係助詞の等質性は、構文上、「取り立て機能」を発動する前提として、文表現に内在するものでなければならない。表現者の立場で見るならば、いかなる場合(表現事態)に「取り立て機能」を必要とするか、ということが係助詞の等質性を考える手掛かりである。

(2005.12.23)
係結びの消滅から見えてくるもの 半藤英明
 概して、言葉は人間の認識の反映である。従って、言葉に変化が現れれば、人間の認識に変化があったということである。古代日本語に見られた「係結び」の消滅は、古代語から現代語への変化(便宜的に「近代語」を想定しない)の一つであるが、それは日本人の認識の変化を物語る。

      *

 学校教育で古文を習い始めると、間もなく学習するのが「係結び」である。そこでは、@「ぞ・なむ・か・や」の助詞が文中に現れると文末語が連体形になり、「こそ」では已然形になることを以て、それらの助詞が活用形の拘束をもたらすこと、A「ぞ・なむ・こそ」の係結びは強調の働きにあり、「か・や」では文意が疑問になること、を学ぶのがせいぜいのところである。そのように「係結び」を古文読解のためのテクニカルなものとして理解するのは、その後の学習に有益なことではあるが、古代語に於ける「係結び」の役割と意義とを思えば、そのような知識だけに留めておくことは賢明ではない。
 「係結び」がどうして存在するのか、何故そのようなものが生まれ、また現存しないのか、といった論点は、「係結び」の本質理解する上で必須のものである。更に、そこからは古代語の言語体質といったものも浮かび上がらせることができる。近年、「係結び」の研究は、従来の実例分析型の実証的なものから理論的枠組みの構築へと大きく舵を切ったが、筆者は「躁舵手」の一人である。その筆者にこのところの研究で見えてきたのは、「係結び」の消滅に伴う日本人の認識の変化である。

     * *

 「係結び」とは、一言で言えば、文中の係助詞と文末語の活用形の拘束形式とによって非強調構文に対する「強調構文」を演出するものである(「か・や」にしても、強調構文たる疑問表現を作っている)。強調という働きは、文に対して言葉として特定の意味を発揮するものではない。文の情報を如何に伝えるかという伝達上の作為である。古文・現代文を問わず、文の強調形式には倒置、省略、繰り返し、副詞の添加など様々なものがあるが、古代語に於いて更に複数の助詞による「係結び」が存在していたことは、そこでは現代語よりも多様な強調形式が求められていたことを示している。しかも、多くの古典作品で「係結び」が多用されている事実は、古代語がかなり伝達性を重視する環境にあったことを思わせる。このことは、そのような言語体質にあったからこそ「係結び」という強調形式が生まれたのだとも換言できるから、古代語の体質と「係結び」とは切り離すことのできない関係であったと言い得る。

    * * *

 従って、その「係結び」が現存しないということは、現代語の体質が伝達性重視の様相から別の在り方へとシフトしたということになるであろう。
 現代語は、言葉から文意がそのまま理解されることを尊ぶ。それは、言語活動が広く万人のものとして大衆化するには必然である。今や、曖昧な物言いは、可能な限り、排され、前後の文脈から文意を測る苦労は減少した。用言や助動詞といった活用語の活用形に依存して強調構文を作ることも一般的でなくなった。そのような変化は、並行的に「係結び」のように形式性の強い強調形式を嫌い、上述のような、いわば単純で分かりやすい形の強調形式で十分なものとした。つまり、現代語が「係結び」を合理化したことは、現代語の体質が言葉を如何に伝えるかということよりも、言葉で何を伝えるかを重視することへと改まったことと連動しているのである。
 このことは、当然、今日の日本人の認識を反映するものでもある。現代のように情報化・高速化した社会では、言葉を如何に伝えるか、などと腐心して悠長に構えてはいられない。短く、素早く、分かりやすく、がコミュニケーションの達人と目される時代、多くの人々の価値観は短兵急な合理性にあると言える。現代語の体質と我々の認識とは、まさに一体的である。
 日本人の認識は、古代語の時代の融通を聞かせる社会感覚から今日の合理主義へと大きく変化した。係結びの消滅からは、そのような読み方ができる。

熊本県立大学文学部『文彩』創刊号(2005.3)より転載